「nice things」9月号掲載

 

「nice things」9月号に漆掻き猪狩の仕事をご紹介いただきました。

いつも感じるのですが、私のような微賤の輩にあうために

わざわざ遠いところまで安くはない御足を払ってお越しくださる方々。

その方々の気持ちに少しでも貢献や恩返しができているのでしょうか。

「乞食の中にこそ立派な人がいるものだ」と西行さんは仰りましたが、

その言葉に漆の木のまわりを乞食否虫けら同然に漂う漆掻きも、

立派になりたいなど思いもしませんがわずかばかり救われる気持ちが致します。

 

 

「日経おとなのOFF」掲載

 

「日経おとなのOFF」8月号に漆掻き猪狩の仕事が掲載されました。

お近くの書店にお立ち寄りのさいはご一読ください。

 

約1ヶ月ぶりのアップ。

猪狩は死んでいるのか生きているのか。

左のサイドメニューに「Instagram」がありますので

そちらをクリックしてまたいでいただくと近況が分かりやすくなっております。

 

漆掻き。

山に入っているあいだは人間と接触がほぼほぼありません。

世界が視覚及びそれに付随する感覚でしか成り立っていないとしたら

人間社会に姿の見えない状態のわたしはある意味「死んでいる」とも言えます。

しかしウルシノキとそのまわりにいる動植物からみると

わたしは毎日ウルシノキの間を指で弾いたピンポン球みたいに上下左右に飛び跳ねている

そこに存在している生きものの1つになります。

その意味ではわたしはこの世界に「生きている」。

生きていると死んでいることの境界線はどこにあるのか。

「生死」は絶対的な基準があるように思われがちですが、

実はとても曖昧なものではないでしょうか。

例えば約70億の人々をすべて視覚だけでとらえることは不可能ですが、

仮に人口1万人弱の村で生活の全てが完結している人間がいるとしたら外の世界はあってないようなもの。

視覚が世界認識の基準とすればその人にとって見える範囲「村」以外は闇の世界であり

無いに等しい場所です。村以外で暮らす人も営まれる社会も存在しません。

それは意味として死とほとんど変わらないことではないか。

でもご存じのように世界は1万人の村と比べたら無限といっていい規模で広がっています。

日本という国単位でみても海の外には様々な国々があることになっています。

でも「海を越えれば外国がある」ということにまったく関心がない人間がいるとすれば、

その国々はある意味「死んでいる」状態です。

この人物にもし社会生活上の視覚的関係性が崩壊するような状況がおこったとしたら

案外もろく人間の「生死の境」は崩れはじめるものではないでしょうか。

いままで生きていたものごとが崩壊し、

いままで存在しなかった死んでいたものたちが立ち現れる。

休日に一人部屋で過ごすことは誰にでもありますが、

そんなことで生死の問題に結びつける人間はいないでしょう。

ただし、もしそれが永遠に続く環境に自分がはいってしまったとしたら。

関係性のあるなしで生と死を語るのは安易なことだと分かっていますが、

事実、山の中に一人でいるとどうしても世界が信じられなくなってしまう瞬間や時間がわたしにはあります。

遠くから聞こえる生活音ではっと我に返りますが、

返った世界ははたしてどちらの世界だったでしょうか。

いまのところ帰った場所は所謂こちら側ですが、

ついひねり方を間違えるとそちら側にいくことだってありそうです。

どっちがどっちかも分かりませんが、

多分どちらかにみなさまも住んでいらっしゃるのでしょう。

わたしは生きているのか死んでいるのか。

時々困惑することがあります。

 

 

漆掻きの季節が迫る

漆木の葉がどんどん大きくどんどん緑に染まっていく

 

葉の成長につられて、モクモクふっくらおいしそうな樹皮に変わっていく

 

 

十戸町にもやっと夏の匂いが空気中に満ちてきました。

木々からむせかえるような植物の匂いが街中に漂い常に人々の鼻にまとわりつきます。

漆掻き一傷分日が長くなっていく初夏、

石畳の街路を帰宅途中の女子高生達が我が物顔に歩いて行きます。

彼女たちは完璧な夏の訪れが待ち遠しいのか

真っ白な靴下をおさめた青や赤のスニーカーが右左、右左と地面につく瞬間

微妙にずれて弾んでいくのが心地よさげ。

南に見える高層ビル群がいつのまにか黄砂で霞んで見えますが

真っ黒なビルの影が大きく一直線に天に向けて屹立していました。

今年も漆掻きの季節がやってきましたけど

あっというまに漆掻きの季節は去っていきます。

私達が赤い両手を地面に落とすよりもほんの少しだけ早く

漆掻きの季節が始まりそして終わります。

顔を漆だらけにした「漆掻き」の顔を

彼女たちは直視できるでしょうか。

汚れのない真っ白な靴下をおさめた色とりどりのスニーカーは

いつのまにか音も立てず地面からほんの少し浮きだしました。

天に昇っていくスニーカー達はわたしの知らない世界を

これからたくさん見ることでしょう。

 

 

ウルシノキの物語

 

 十戸町に遅い春がやってきた。

 十戸町馬越、峰から躊躇なく鉈をまっすぐに下ろし、半分に割った形の山に挟まれて、窮屈そうに馬越という集落がある。半分に裂けたザクロの実にたかった小さな虫にも似たこの集落のちょうど中心に、国道が東から西へに向かって延々と続き、国道に沿って在来線と新幹線の線路がこれもやはり西に向かって針金のように延びている。集落の中心から国道と線路によって分断された南北の住人たちは文明の要である2つの交通網のおかげで大きな利益を得ていた。まだ道も線路もなかった昔年の思い出を事あるごとに語り合い、記憶という名の呪縛に捕らわれていた南北の古老達も、時が経つにしたがいその恩恵に酔いしれ何百年も前からそこに道と線路があり人々の生活を支えてきたかのように語り合うのであった。

 集落の南の山には、馬越不動尊が祀られる馬越山が岩をむき出しにして聳えている。肥沃な土壌がある集落の南側では、たくさんの作物が育っていた。稲麦菜果その土地と繋がれば稲田には満々と水がきらめき、麦は永遠の富を約束するかのように黄金に輝き、果樹はこぼれ落ちんばかりに実り、畑には緑の新芽が途切れることなく肥沃な土壌から頭を持ち上げる。冬には宝石を積み上げたような純白の雪に染まる馬越山の麓に「千本漆」という名所がその昔あった。集落を走る街道の両脇に沿ってウルシノキが一里あまりも続いている。しかしその姿がいまではほとんど消えかけている。街道沿いにウルシノキは数本まばらに見える程度で、往事はその威容を一目見ようと諸国から集ってきたという旅人達も、蝋燭の火が燃え尽きる寸前に何者かに吹き消されてしまったように姿を消してしまった。

 この千本漆を街道沿いに植えたのは、オイワケという名の老人と老人が飼っていた犬のキナゴルだった。南の古老が語るにはオイワケ老人とキナゴルは飼い主と犬の関係をこえた絆で強く結ばれていたという。伴侶をはやくに亡くしたオイワケ老人はキナゴルをかわいがった。キナゴルはオイワケ老人に顔がそっくりだったし、オイワケ老人もキナゴルに顔がそっくりだった。体の所作というか、腕や足の動かし方、呼ばれたさいの首の曲げ方、ご飯の食べ方など、単に似ているという言葉では説明がつかない不思議な共通点が両者にはあった。散歩をしているところなど、老人が犬を散歩させているのか、犬が老人を散歩させているのかわからないほどだった。

 そんな一人と一匹は街道沿いにウルシノキを植林するときも常に一緒だった。オイワケ老人が心を込めて育てたウルシの苗を街道に沿って一本植えるごとに、キナゴルは苗の根本におしっこをかけていった。キナゴルがおしっこをかけるとその苗は驚くほどに生長した。古老が語るには、植えたそばから根がしっかりと大地に腰を下ろし、引き抜こうとしても根っこが鋤の刃を土に深く食い込ませたように容易には抜けないほどだったという。数年はかかるはずの成長が一月もすればウルシノキの背丈は大人ほどに伸び、幹の太さは成人の腕に負けないくらいもくもくと太った。そして一日、一月、一年とオイワケ老人とキナゴルは夜が白み始めてから日が山のむこうに沈み込むまで、毎日苗を植えてはおしっこをかけ続けた。気がつくと街道はウルシノキで一杯になった。街道の両脇に白と黒の牌を一個一個延々と直線に並べていったように、ウルシノキは規則正しい間隔をおいて街道を東から西へと進んでいった。

 このウルシノキの街道を快く思っていない人物がいた。名をゴンペイという。ゴンペイはウルシノキがとても嫌いだった。小さい頃にウルシノキの下を歩いて全身ウルシにかぶれてしまい、体中から水泡が飛び出し三日三晩ウンウン唸りながら寝込んだ。マンダノキを煮詰めた汁を何度も体に塗ってどうにかかぶれは回復したが、水泡の後が顔にあばたとなって残った。そのせいでゴンペイは自分がとても醜く鏡も見れない顔のために、伴侶がとれないと思ってしまった。実はそこまで顔のあばたが問題だったのではなく、ゴンペイの性格が気難しかっただけなのだが、そんなことは思いもつかないゴンペイは愚直なまでに自分をこんな顔にしたウルシノキを恨み続けた。恨み続けてずっと独り者だった。ゴンペイは自分の顔をあばた面にしたウルシノキを絶対に許さないぞと心に誓ったのだった。誓った目の前でウルシノキを次々植えていくオイワケ老人とキナゴル。ゴンペイにとって生傷に錐をもみ込まれるのと同じくらい耐え難いことだった。そこでゴンペイは一計を案じた。

 ある日ゴンペイはキナゴルに声をかけ、わしの庭に今にも枯れそうなウルシノキがあるからお願いだわしの木にもお前のおしっこをかけておくれと頼んだ。実は他所から枯れたウルシノキを引き抜き庭に埋め込んだだけだったのだが、従順なキナゴルはゴンペイの願いを断るわけもなく、素直に庭のウルシノキに丁寧におしっこをかけた。瞬く間にウルシノキは蘇った。枯れた樹皮のかさぶたのような肌はみずみずしく灰色に艶めき、枝先についた今にも落ちそうな茶色く萎れた枯れ葉が新緑に輝きだし葉身をゆっくり天へと伸ばしながら背伸びをするのがわかった。キナゴルは自分の仕事を満足そうに眺めていた。ウルシノキの根元から梢までをじっくり眺めた。早春の黄金色の草花の上で、暖かい日光に体中の体毛が柔らかい空気を一杯に含んで、毛の一本一本が踊りながら喜んでいるように感じた。キナゴルが眺めているその背後から、ゴンペイはゆっくり近づき手にした鉈でキナゴルの頭を馬越山のようにまっぷたつに叩き割った。そして体をウルシノキの真下に埋めてしまった。一人きりになったオイワケ老人は幾日も幾日もキナゴルを探したが、とうとうキナゴルがどこにもいないことがわかると、地面に突っ伏してオーオー泣いた。泣いているオイワケ老人の下衣の中から、もやしに似た根っこが伸びて肥沃な黒い土の中へと勢いよく吸い込まれていく。オイワケ老人の体はいつしか深い灰色の樹皮に覆われたたくましい一本のウルシノキになった。ただ、たくましいウルシノキの葉は悲しみととまどいの血を吐き出し燃えるように真っ赤に染まったという。

 忌々しい一人の老人と一匹の犬がいなくなったあとのゴンペイは、とても安楽だった。憎たらしいウルシノキをこれ以上増やす奴らはいないのだ。そう考えただけでも独り者だったが毎日が幸せだった。そして幸せな日々が、満ち足りた日々が続けば、いつものごとく次の幸せを求めて人は欲深くなるものである。ゴンペイもまったく例外ではなかった。老人と犬が育ててきたあの立派な千本漆の街道が、どうしても我慢できなくなってきたのだ。日に日に憎しみがつのるそのさまは、数え切れないほどの衆生の悪鬼煩悩を打擲してきた馬越山の不動様も尻込みするほどの憎しみの炎だった。ゴンペイは街道のウルシノキを残らず切り倒すことにした。そうすることが、自分の幸せをこれからもずっと永遠に持続させるための絶対条件であるかのように。まだ日が昇りきらないうちから大きな斧をかついでゴンペイは街道沿いのウルシノキを倒しだした。ところがウルシノキはびくともしなかった。何度斧を力一杯木に打ちつけても、木肌が傷つくそばから犬の毛のような体毛が傷口からのびだして打ちつけた場所を塞いでしまう。結局ゴンペイは一日かかって一匹のアリンコぐらいの仕事もできなかった。さんざん汗を流したが思い通りにいかなかったことに腹が立ったゴンペイは、沈みゆく夕日を背にしてウルシノキに放尿した。勢いよくでたものが、ウルシノキにあたり厚い鉄板に生卵をおもいきり叩きつけたように辺りに飛散した。そのうちの一滴がゴンペイの手の甲についた。ゴンペイは自分でしたものが自分に跳ね返ってきたものだから、両の目が左右にちぎれそうになるくらい怒ったが、怒ってもどうしようもなかった。その一滴がみるみるうちにゴンペイの手の甲で大きくなりだした。よく見るとそれは水泡だった。ゴンペイは思い出した。この水泡は漆かぶれの水泡だった。一晩もしないうちに手から全身へと水泡は広がっていった。広がったあとには体中の水泡がパチンパチンと音を立てて次々破れた。破れあふれでた膿はゴンペイが臥していた布団の周囲を徐々に浸していく。とうとう破れた水泡の膿の中でゴンペイはおぼれ死んでしまった。だがゴンペイの恨みは天よりも高くその志はある意味尊いものだったかもしれない。裏山に入る前にゴンペイは千本漆の街道に願をかけた。

 その後、日を追うごとに街道のウルシノキは弱りだし、一年も経たないうちに千本漆の街道は立ち尽くした屍達の列が一糸乱れぬ姿で街道にお辞儀をしたごとく、一斉に萎れて立ち枯れてしまった。オイワケ老人とキナゴルが育てた千本漆の面影は跡形もなく消えた。ゴンペイの願いは成就したともいえるし、成就し過ぎたともいえるかもしれない。この伝説とも昔話ともホラ話ともはっきりしない話を、古老から語り聞いたのだ。国道と線路が併走するそばで、通行するものもまばらになったその旧街道沿いには、今でも幾本かのウルシノキがあるのは事実である。もしかしたらその中の一本が、今でもキナゴルを探し出せずに悲嘆にくれたオイワケ老人の変わり果てた姿ではないと、誰が言い切れるものだろうか。秋、山中でもっとも早くウルシノキは紅葉をむかえるが、血を吐き出し燃えるように真っ赤な葉に包まれたオイワケ老人がいまもどこかでキナゴルを探し求めているのかもしれない。

 

 

 

病院にて

2ヶ月ほど前から通院している。

背中に腫瘍のような腫れ物ができたのに気付いたのは昨年の秋。

毎日風呂場からあがり、身体を拭いている最中に何か固いものがあるなとは思っていたが

ごく小さな腫れ物だったので当時はそれほど気にしていなかった。

それが年明けからぐんぐんと大きくなっていく。

大きくなるだけならまだ耐えられたが、徐々に痛みが伴ってきた。

腫瘍はわたしの背中で、大きくなるごとに、忘れていたことを忘れさせないために

その存在を主張してくる。

耐えきれなくなったわたしは病院にいくことにした。

 

本格的に通院するのは何年ぶりだろう。

その前に病院に入るということが何年ぶりか。

記憶にある限りでは7,8年前、おろし立ての鉈で指を打ってしまい、急患で運び込まれて以来かもしれない。

地元にあるそこそこ大きな総合病院にむかう。その日は朝起きてから一種の病院ハイになっていたのもあり、少し気合いを入れて早めに病院に行くことにした。

車中、唐突に思い出す。遠足の朝、小学生の頃。

こんな期待と不安がない交ぜになった気持ちだったことを思い出す。5年生のとき、2組の馬面で斜視の鈴木君が、遠足当日にお弁当を忘れてしまったことがあった。お昼の時間にクラスで少しずつ、おかずのお裾分けをしたことを思い出す。鈴木君は嬉しそうじゃなかったし、それどころか、その表情はいただいたおかずの分だけ暗くなるばかりだった。鈴木君は苦虫をかみつぶした顔をして貰ったおかずをおかずで食べていく。遠足のために新調したとおぼしき緑色のトレーナーが妙に艶っぽく、

沈んだ表情と皮肉な色調を周囲に浮かばせていた。

数十年後風の噂で聞いたが、鈴木君はその後盗賊になって豪勢に金を儲けたが、ついには足がつき今は塀の中でご飯と一緒におかずを食べている。

 

病院という場所は、わたしの予測を無視した未知なる場所だった。

院内は芋の煮っ転がしを鍋ごと逆さまにひっくり返したごとく混雑していた。

受付の場所すらわからないわたしは、

獲物の目標が定まらないゾンビのようにゆらゆら院内をさまよう。

どうやら院内の他のゾンビの流れを見ていると左手が受付らしい。

なんとか受付を済ませた新入りゾンビは、「皮膚科」へとむかった。

皮膚科にはすでに受付を済ませ腹を空かせた彼らが椅子に座っている。

新入りが入ってきたことで好奇の視線をわたしのはらわたへと向ける。

「違うんです。ボクの病気は背中なのでそこ見ても何もありません。」

突き刺さる視線に申し訳なさを感じながら心の中で謝る。

皮膚科の受付ゾンビに診察カードを渡す。1時間ほどして診察室へと案内された。

期待していた通り、リーダーゾンビ(医者)はわたしの腫れ物を的確に診察して、執拗にわたしの肉付きを確認する。

背中のこぶは、手術しないと根治しないものだった。

後日、わたしは手術を受けることになった。

手術といっても簡単なもので、

殻の付いた松の実状の肉片を小指の先程背中から切除するだけ。

30分程度で済んでしまった。

切除された肉片を看護婦さんがおもむろに目の前に差し出す。その肉片はとてもうまそうだった。切除された肉の断面の赤身と脂肪が、ほどよく炊けた豚の角煮を連想させた。

わたしは差し出された肉片をそっと口元に。

 

診察を終えた皮膚科の待合室では、車いすに乗った青年が、

付き添いの女性の尻肉を、まるでそこに柔らかい大きな瘤があるように右手で執拗に押し続けている。

女性は見えない空気が膨らんで彼女の尻をつつく心持ちで、気にもとめていない。

院内の中央通路を挟んだはす向かいの精神科、

こちらをじっと見つめる中年男性の姿がある。

わたしが振り向くと首を元に戻して視線をそらす。わたしが正面を向くと男性はまたこちらを凝視する。

こんなやりとりが数回続いた。

男性は笑い出した。

わたしもつられてにっこりと笑い返した。

それだけだった。破顔していた男性の表情が一瞬で素に戻ると、さっきまでの世界は男性の中に存在しなくなった。

その時その前の無の状態に戻ってしまって、わたしのことなど忘れて、男性は永遠に正面を向き続けた。

 

あと何年も病院にはかかりたくないなと思う。

しかし、40年無摂生に酷使した体は今後いうことをきかなくなるばかりだろう。

「時間」は、若さという春も老いという冬も、みな等しく分解して砕いてくれる。

時間はやさしい物差しか。

人はその物差しにあてられ、1舒磴い猟甲擦貌々馬鹿騒ぎをするだけなのだった。

 

 

・Categories
・SNS
・出展情報
「生活工芸展」
2017年3月18日(土)–3月9日(日)
gallery yamahon(三重県)
>>詳しくはこちら
「毎日ハレの日 展」
2016年11月9日(水)–2017年1月30日(月)
国立新美術館B1 SFTギャラリー(東京都)
>>終了しました
「構造乾漆」
2016年11月18日(金)–11月23日(水)
AXISギャラリー(東京都)
>>終了しました
「こども工芸修行 弟子求む!」
2016年7月22日(金)–8月30日(日)
石川県立伝統産業工芸館(石川県金沢市)
>>終了しました
「クラフトフェアまつもと2016」
2016年5月28日(土)–5月29日(日)
あがたの森公園(長野県松本市)
>>終了しました
・器の取扱店
・Profile/Contact
・Archives
・Selected Entries