一人の漆掻き

ハルオさんが作ったタカッポ(ウルシを入れる容器)

 

漆掻きの仕事は佳境をむかえ、それと共に感じるのが漆森の変化に驚かされることだ。

秋分の日をまたぎながら、漆の森は一日毎に黄葉の度合いを増していく。

黄葉した葉が一枚また一枚と落葉するのを見ていると、自分の心まで落ちていくような気分に陥ることがある。

どうしてもこの時期の漆の森が好きではない。季節感も好きではない。

一年の半年を共に過ごし緑葉で視界が一杯に広がったあの漆の木たちが痩せ衰えていく姿に、死へとむかう自然界の序曲を傍聴者として立ち会わなければならない。

死というものから逃れられない人間のそれと重ねてみてしまっているのか。どうにも心が荒んでくるようだ。

 

一人の漆掻きが、先日亡くなった。

岩手県に来て漆掻きの研修を受けた時期から3年ほど

ハルオさんというそのベテランの漆掻きと公私ともに親しくさせてもらった。

ハルオさんは、ほらが好きで女性が大好きな猿のような顔をした小柄な漆掻きだった。

とにかく数字のデタラメ加減は有名で、ハルオさんが1といえば翌日には2になり1週間後には10になり気が付くと事実からは遠くかけ離れた数字がハルオさんの口から巷に流されるのだった。

個人的には特別な被害はなかったと記憶しているが、

お金の話になるとほとんど信用に値しないことばかり喋るから

それには閉口した記憶がある。

でも微笑ましいほらの一つくらいに思わないこともないが、

そのほらで名誉を著しく傷つけられた地元の方もいたのかもしれない。多分いただろう。

女性が大好きなこともハルオさんを思い出すと出てくるキーワードだった。

年下の女性を見ると(ハルオさんは当時70過ぎだったから世のだいたいの女性はカバーできたわけだ)そして女性が若ければ若いほど下ネタを連発するのだった。

特に必ずといっていいほど、お産の話を女性に振るところなどは、

デリカシーのかけらもデリカシーの言葉さえも知らなかった。

あるイベントで夜に宴会があり、

若い連中が集まった部屋に(もちろん若い女性もいた)ハルオさんがゲストで呼ばれたときなど、ハルオさんの電池が切れる夜9時過ぎまで酔ったハルオさんの魔手から女性達を守らなければならなかった。

魔手といってもそこは老人で、枯れてはいるがそれでも艶っぽい、そんな程度の微笑ましい魔手ではあったが。

若い頃、相当だったのは想像に難くない。

 

ほら吹きで女性を見ると見境のないハルオさんだったが、

漆掻きとしての力量と姿勢は「誠実の人」だった。

ウルシの山の持ち主達からたいそう慕われているのは、ハルオさんと話す持ち主達の顔と言葉を見ればよく分かった。

当時、ハルオさんのウルシの山にカマズリの手伝いにいき

漆掻きを早朝から遅くまで一日中間近でみる機会がよくあった。

北東北は秋口になると、夕方の5時過ぎには日が陰ってくる。

山の中は特に日が陰るのが早いから、そういうときは軽トラックのライトを山にむけさせて遅くまでウルシを掻いていた。

1秒1分1時間でも長くウルシを採ってやろうという気概。

そこに数字のほらは一切無かった。

 

ある日、自分の漆掻きが終わった後、ハルオさんの自宅に何気なく寄ってみたことがあった。

奥さんが心配そうな表情で土間に座っている。

ハルオさんは土間の上がりの板敷きで死んだように仰向けになり目を閉じて眠っていた。

私がハルオさんの蝋燭に息を吹きかければそのまま事切れていただろう。

でも私は息をかけることをしなかったしできなかった。

その代わり、じっと立ったままハルオさんの姿を見つめていた。

一滴でもウルシを多く採るために、ハルオさんは命を削っているとしか思えなかった。

「ウルシの一滴は血の一滴」ウルシの世界にはこんな言葉が昔からある。

私はこの言葉が嫌いだ。

だけど今も折に触れて思い出すあのハルオさんの姿は、

好き嫌いの単純で平板な価値観をはるかに大きく越えた偉大な何かを体現していたとしか当時の私には思えなかった。

どのくらいの時間が経過したのか、

ハルオさんは私がいるのを気配で感じたらしく、目を重たそうにあけながら身体を起こしあの誰からも好かれるくしゃっとした笑顔をわたしにむけて、「お、きてたのか」と言った。

そこにはいつものほら吹きで女好きな、いつものハルオさんがいた。

 

その後、ハルオさんと私は徐々にではあったが疎遠になっていった。

何故疎遠になったかはここではふれないが、喧嘩別れしたわけではない。

そもそもハルオさんとそんなことはおこるわけがなかった。

あの笑顔を前にしたら何だって許せてしまうからだ。

人づてに聞いた話では、ハルオさんは老齢での激務がたたったのか身体をこわし、

本格的な漆掻きは徐々にできなくなったようだ。

そしてハルオさんは逝った。

葬式というものが昔から苦手で、世間の常識からしたら非難されて当然かもしれないけど、

ハルオさんの死去を聞いた後、どうしても足が向かなかったことを告白する。

でも自分なりの弔いはしているつもりだし、葬儀にでてそれっきり故人を思い出さない連中とは一緒にしないでほしいと思う。

誤解を恐れずに言えば、ハルオさんが生きている間弔いのその思いは消えたことがない。

あの夜に、私が見たハルオさんの姿は永遠に忘れることができないものだろう。

それは、漆掻きとして一生を終えようとする人間の

ウルシを採る行為を極め尽くそうとする紛れもない偉大な輝きの一瞬だったかもしれないし、田舎の片隅で世に名を成すわけでもなく、一生を漆掻きに捧げた一人の老人の悲しい最後の姿だったのかもしれない。

一つだけ間違いないことは、

私の中でハルオさんは消えることのない印を刻んでいったということだ。

今の時点でその刻み込まれた印が今後どうなっていくのかは分からない。自分自身でも。

これからも時代の変化と共に、私の中の「ハルオさん」は生き続ける。

 

 

 

「日野明子の仕事・8」参加中です

掲載が遅くなってしまいましたが、今年も博多の工藝風向さんで行われている

「日野明子の仕事・8」へ参加させていただいています。

今回も定番のお椀を置いていますので、暑い季節ですが足をのばしていただければと思います。

 

 

気付けば7月半ばを過ぎ漆掻きの季節も中盤に入りかけています。

今年はまだ漆掻き情報をアップしておりませんでしたので、少しだけ写真を。

昨年は引越の影響もあり集中して漆掻きができたとは言い難い年でした。

クスサンの大量発生に悩まされた年でもありましたが、今年もやはり何本か裸にされてしまいました。

素っ裸になった木を見上げながらふと思ったのですが、

現代は機械の力で農薬を上手に散布すれば毛虫たちは一網打尽です。

ではそんな機械の力を用いることができない遠い昔はどうしていたのでしょうか?

気になります。

でも分かりません。こんど漆掻きの古老に聞いてみたいと思います。

仮にこれだけの量を全て人力で対処していたのかと想像すると、気が遠くなる。

幸い、今年の森はそれほどの被害がないのがせめてもの救い。

昨年の反省が少しだけ生きていますが、

昔日の方々のご苦労を思うとぱんぱんにお腹の張った毛虫を踏み潰す足の力にも気合いが入ります。

 

 

山にいると俺は言葉で生きてる側の人間じゃないんだなと思う

ここでは「具体的に話せ」「論が通っていない」式の問答は無意味だ

「身体を動かすこと」それがただ一つの意味であり答えだ

 

 

 

 

ここの山の爺さんは漆の木を愛していると思う

 

爺さんは腰が曲がった姿で毎年山に入り

漆の木に肥料をやり下草を刈りこれからの漆の木を育てている

はたして写真の幼い漆の木があと十年以上後に立派に成長した姿を見られるだろうか。

言葉や文字で生きている人間から見たら馬鹿に見えるだろうか?

でもほとんどの人間には無駄に見えることを、それでもひどく地味にこつこつこなしていく

身体で生きている、こういう価値、こういう人間が好きだ

 

 

クラフトフェアまつもと
5月28日(土)と29日(日)に松本市のあがたの森公園にて「クラフトフェアまつもと2016」に参加いたします。
今回で3度目の参加で、はじめての屋外での出展。
公式サイトの特集コーナーではインタビューの記事を掲載いただきました。 →
会場にお越しの際はぜひお立ち寄りください。


山々に若葉の冠が目立ちはじめる
 
雨が少ない地域なので降雨は恵みとなり、滴る観音山


畑を耕し田に水を張る


蜜の香りと乳色の季節がやってきた




道路脇の松の新芽 ミズキの緑もまだまだこれから

  
漆の苗木このうち何本か東京へ送る、うまく成長してくれるといいが 苗の根っこがドッシリとしている  


穴を掘り苗を植える

 
1万年以上にわたって繰り返されてきたことを想像する くらくらする瞬間がある

暦では夏になり、岩手県北の山々もやっと緑の衣を羽織りだす。
先日、偶然漆の苗が手に入ったのでささやかな植栽を庭のまわりに行う。
10本にも満たない本数ではあるが、岩手に移住をして8年目に入り、
自分の手で自分が住んでいる土地に植栽をしたいという心が、すこしだけ晴れた日だった。
もちろんこのまま順調に生育するかは今後の手入れにかかってくるが、
わからないのだが、良い苗が手に入ったのでうまくいけばいいと思う。

漆掻きは掻く漆の木をすべて自分でまかなっている、
とおもわれるかもしれないがそうではない。
調達しているほとんどの漆の木の植林は、地域の有志の方々の手に委ねられている。
幸い二戸地域にはまだたくさんの漆の木が奇跡的なことに残っている。
それだけ地域の有志がいたということだ。
私たち漆掻きはその「奇跡」に馬乗りになって仕事をしている。
「二戸地域」というと若干分かりにくいだろうが、
漆の木は「浄法寺」にあるのではないか?と思われるだろう。
「浄法寺漆」や「浄法寺漆器」の名称があるくらいだから、
「漆の木も浄法寺」と他県の方が勘違いされる気持ちはよく分かる。
漆の木は浄法寺(合併前の旧浄法寺町内を指す)の小さな地域にのみ植林されているのではない。
もっと広範囲の市町村に漆の木は存在していたし、今も存在している。
岩手県というくくりを飛び越えて青森県内にも漆の木があるのだから、
ましてや「浄法寺」というくくりで、
「この地域の漆の木がある場所」と認識されることが、
漆の本来の姿を見誤ってしまう原因になっている。
繰り返し強調するが、漆の木は二戸地域全域にかろうじて奇跡的に残っている。
私たち漆掻き職人は地域の漆の木を掻いて生活している。そこに市町村の区別はない。
漆の木があれば、私たち漆掻きはどこにでも移動する。
歴史を振り返れば、漆掻きは浄法寺内のみの特権的職業だったわけではもちろん無かった。
岩手県内の各市町村にはその地域の漆掻きがいたし、つい最近までその伝統は各地域で続いていたのだ。
私が住んでいる一戸町にも砂子田さんという伝説的な漆掻きがいて、
今なおその方の仕事を聞く機会があるほど、
生々しい記憶が地域の底に刻みつけられている。
それは一昔前には県内や二戸地域内ならどこにでもあった普通の話。
漆掻きにとって不幸なことは、時代は漆掻きを必要としなくなった。
星の数ほどいた地域の漆の猛者たち、
その仕事の軌跡はほとんど忘れ去られ、
漆掻きが(つまり技術)が最後まで残った、
今の「浄法寺」という名に収斂されることになった。
忘れられつつあるが、時代を遡れば、
漆掻きが小さな枠にとらわれず、
地域の漆の木を相手に活動していた時代があった。
そして地域の有志が漆掻きのために漆の苗をどんどん植林していた時代があった。
植える人に掻く人、両者の関係がまったく健康的な「地域の時代」が昔あった。
 
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「うつわベーシック 碗と椀」
2019年3月13日(水)–5月13日(月)
国立新美術館B1階 SFT GALLERY(東京)
>>詳しくはこちら
「フィールドオブクラフト倉敷」
2018年5月12日(土)–13日(日)
倉敷市芸文館前広場(岡山)
>>終了しました
「飯碗と汁椀展」
2018年3月2日(金)–3月28日(水)
うつわ京都やまほん(京都市)
>>終了しました
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